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Geography

ユルリの時間を感じる場所へ

 絶滅危惧種にも数えられる海鳥や野草が断崖や湿原に密やかに息づき、北の海を渉猟する海獣が岩礁に遊び、そして何ものにも縛られることのない馬が草原を駆ける……。ユルリ島とは自然の精妙な営みの上で均衡を保つ、世界のほかのどこにもない島です。そしてその均衡を崩してしまうことがないように、人の島への立ち入りは制限されています。だからこそ、ユルリ島は幻にも似た存在なのです。見ることはできても、現実には入ることができない場所として。

 しかし同時に、ユルリ島を感じる機会は、実は誰でも手に入れることができます。というのも、ユルリ島と対岸との距離はごくわずか。向かい合う根室半島の落石地区には、島と同じ風に吹かれ、島と同じ霧に包まれるための場所、島の歴史を想い、島の現在を眺めるための場所が、いくつか用意されています。ここではそうした落石をご案内します。近くて遠い、しかし同時に遠いけれども近い島の空気を感じることができる場所。それもまた、ほかのどこでも出会えないものでしょう。


落石シーサイドウェイ(フットパス)

“フットパス”とは英国で生まれた概念で、私有地の中を貫いたり横切ったりしつつも、誰もが歩いて(on foot)通ることのできる通行路(path)を指しています。のどかな田園や趣ある街並みの中などを歩くことで、その土地に伝えられてきた風景や暮らしの形を味わおうというものです。根室は北海道におけるフットパスの発祥の地。落石の浜松地区にも、馬が放牧された牧場の牧草地などを縫うように、美しいパスが整備されています。海岸の崖の上を延びるこの浜松パスを進めば、晴れた日であれば眼前には真っ青に輝く太平洋が広がり、そこに浮かぶユルリ島の情景も鮮明に見て取れます。フットパスは本来、各人がただ自由に歩ける道ですが、落石のフットパスではガイドツアーなども行われています。思えば、この浜松の牧場からユルリ島へと渡った馬も少なくないはず。そんな歴史に想いを馳せながら歩くパスの爽快感は、また格別です。

落石ネイチャークルーズ

落石漁業協同組合に属する落石、浜松、昆布盛の3つの漁港のうち、落石港からは地元漁師が操船する漁船でユルリ島の周囲をぐるっと巡る「落石ネイチャークルーズ」が行われています。午前10時と午後1時の1日2回出航で、1回の所要時間が約2時間半。料金は大人(中学生以上)1人8,000円、子ども1人5,000円(ただし小学5年生以上で保護者同伴が必須)、前日の午前中までに予約(最少催行人員5名)が必要です。ユルリ島は上陸できませんが、船上からでも馬の姿を見ることができる日もありますし、海上ではエトピリカ、ケイマフリやウトウ、コアホウドリなどの海鳥、さらにゼニガタアザラシ、ゴマフアザラシ、ラッコなどの海獣と出会う機会も豊富にあります。海鳥や海獣の中には絶滅危惧種に指定されている生き物も少なくはなく、その意味でも貴重な体験となるでしょう。詳細は落石ネイチャークルーズのホームページ(http://ochiishi-cruising.com)をごらんください。

・落石岬

根室半島の付け根にあたる位置で太平洋に突き出た落石岬。いわば半島の始まりの場所ともいえるこの地点には、半島の歴史にまつわるさまざまな記憶の形見が残されています。例えば、落石無線電信局跡。落石の電信局は20世紀初頭、付近を航行する船舶との無線交信のために造られ、1923年に現在の場所に移されました。以後、1929年には当時世界最大の偉容を誇った飛行船「グラーフ ツェッペリン号」からの無線を受信、1931年にはリンドバーグ夫妻がこの無線局からの電波を頼りに根室に飛来しています。つまり落石は、まさに世界の歴史と交信してきた場所でした。いわば世界に向けて開かれた近代日本の窓が、この人影もない岬の一隅に作られていたわけです。そして現在、独特の詩情を帯びたコンクリート製のかつての無線局の建物は、そんな歴史的な交信の記憶を抱えたまま、静かに草原の中にうずくまっているのです(現在、建物内部には入れません)。

そんな無線局跡を過ぎ、おちいし岬パスと名付けられたフットパスを進めば、岬の突端近くに灯台が見えてきます。「日本の灯台50選」(1998年に海上保安庁が制定)にも選ばれている美しい灯台。周囲に広がる草原の緑に映える赤と白の躯体は、不思議なノスタルジーを湛えています。海霧の多い岬に立つため、2010年までは霧笛信号も備えていたといいます。いまはそれを聴いたことがある人々の記憶の中にしか残っていない響きですが……。そしてそんな落石岬には、日本ではここでしか見ることができない花が咲きます。それがサカイツツジ。氷河期が過ぎるとともに分布域を狭め、高山帯や寒帯などに取り残されるだけとなったレリック(遺存種)と呼ばれる植物種の一つで、落石岬以外での分布の南限はサハリンの北緯50度付近とされます。いわば地球の記憶を宿したそんな花が、北緯43度の落石岬の高層湿原に咲く。それも一つの、ささやかですが美しい奇跡なのかもしれません。


・ユルリ島周辺水域

根室半島南岸の沖合に浮かぶユルリ島。その周囲の海は実に豊富な海の幸が眠る“宝の海”でもあります。その象徴ともいえるのは昆布。ユルリ島の対岸の集落は昆布盛という地名で呼ばれていますが、これはアイヌ語の“昆布(kompu)・湾(moy)”が語源となっているのです。また、昆布盛のほかに落石漁業協同組合が管理する漁港には落石と浜松の港がありますが、この3港にはサケ、タコ、ウニ、さらにはサンマやカニなどが水揚げされ、一年中、にぎわいを見せます。松浦武四郎は著書『三航蝦夷日誌』の中でユルリ島について「浅き処に至りては暗礁多し」と記し、舟を操るには危険な水域であるとしていますが、しかし海中の地形がそれだけ変化に富んでいることが、島の周囲に多様な海中生物を引き寄せ、宝の海を形作る要因ともなっているのでしょう。ユルリ島は多くの海の幸を、いまに至るまで周辺の沿岸に生きる人々に提供し続けてきたのです。

 

根室へのアクセス

根室駅へは、JR利用の場合、札幌駅から特急「おおぞら」で釧路駅まで約4時間30分、釧路駅から花咲線(根室本線)で根室駅まで約2時間30分。
バス利用の場合、札幌駅から都市間高速バス「オーロラ号」が1日2本発車しており、中標津経由で約8時間30分、厚床経由で約7時間15分。
空港を利用する場合、中標津空港から車で1時間30分、釧路空港から車で2時間20分。

※花咲線の根室駅~落石駅間は約20分、根室駅~昆布盛駅間は約15分

根室市
https://www.city.nemuro.hokkaido.jp

根室市観光協会
https://www.nemuro-kankou.com

地球探索鉄道 花咲線
https://www.hanasaki-line.com

落石ネイチャークルーズ
http://www.ochiishi-cruising.com

落石シーサイドウェイ(フットパス)
http://www.nemuro-footpath.com/ochiishi/