History

根室の歩みとユルリ島のこと

 ユルリ島を抱く根室の海は、近代日本誕生の前後から現代にかけて、歴史に名を刻んだ人々が多く行き交った、いわば“時代の交差点”であったといえます。この北の海に深くかかわった彼らが胸に抱いていた夢や大志が、いまの日本へと続く歴史の扉を押し開いていったわけで、そうした視点から日本地図を見返してみれば、根室という本土最東端の半島と、その傍にひっそりと浮かぶユルリ島という小島が持つ意味や価値は、実は決して小さくはないのです。

 例えば、高田屋嘉兵衛の存在が挙げられます。司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の主人公としても知られるこの江戸時代後期の海商は、持ち前の果敢さで難破が相次ぐ海の難所であった国後島と択捉島の間の航路の開拓に成功。さらに日本とロシアとの緊張を極限にまで高めた“ゴローニン事件”においては、国後沖でロシア船に拿捕されたものの、自ら交渉にあたってロシア人との友好関係を築き、いまでいう民間外交を展開して両国間の一触即発の危機を解決してしまうという離れ業まで演じました。そしてそんな嘉兵衛にとっても、ユルリ島は重要な場所でした。嘉兵衛がこの島にあった神社に鈴を寄進し、航海の安全を祈願したという記述が古い文書に見えることからも、それを読み取ることができます。神社はその後、根室半島の北側、国後島を望む丘へと移されますが、現在も残るその社殿の祈りの火が最初に灯された場所は、ユルリ島であったとも考えられるのです。

 また、北海道の命名者として近年その名を広く知られるようになった松浦武四郎も、根室との結びつきは浅からぬものがあります。高田屋嘉兵衛が国後・択捉間の航路を開いてからちょうど50年後の1849年、国後・択捉に渡ろうとしていた武四郎が、ほかでもないユルリ島に潮待ちのために停泊したという記録が残されているのです。武四郎の献策をもとに、それまでの蝦夷地という呼称を廃して“北海道”という名が定められたのは、この武四郎のユルリ島訪問からちょうど20年後のこと。武四郎は北海道という名をアイヌの人々との対話の中から発案したとされますが、そうしたアイヌの文化を敬う武四郎の姿勢は、アイヌと和人の対等な交易の実現に心を砕いた嘉兵衛と重なり合うところがあるようです。

 さらに根室の歴史をひもといていくと、そこに意外な人物の名前を発見することもできます。それがチャールズ・オーガスタス・リンドバーグ。言わずと知れた、アメリカ人冒険飛行家です。無名の民間操縦士だったリンドバーグを一躍、世界的な飛行家に変貌させたのは、25歳にして挑んだニューヨークからパリまでの大西洋単独無着陸飛行の成功でした。単葉単発単座の小型機で成し遂げたその快挙の詳細は後に彼自身の手で自伝にまとめられ、ピューリッツァー賞も受賞しています。そして、『翼よ! あれが巴里の灯だ』という邦題で映画化までされたこの大西洋横断飛行から4年後、今度は複座の水上飛行機「シリウス」に妻であるアン・モローとともに乗り込み、リンドバーグは日本を目指してニューヨークを飛び立ちます。途中、濃霧やエンジントラブルのために択捉や国後への不時着を強いられながらも、1931年8月24日、世紀の大イベントの結末を見ようと集まった大群衆が見守る中でリンドバーグ夫妻はついに根室港に到達。パリまでを約33時間で駆け抜けた大西洋飛行とは異なり、出発から1ヶ月半をかけた、それはリンドバーグの生涯でも最大の冒険でした。そしてこの歴史的飛行において、ユルリ島を擁する落石地区にあった落石無線送信局は、いわば水先案内人として大きな役割を果たしたのです。ちなみに日本とアメリカ東海岸とを結ぶ航路は現在も、このリンドバーグ夫妻の冒険によって開かれたルートをほぼなぞっています。

 このように、いくつものドラマの舞台となった根室の海、そしてユルリ島。思えばここで起こった出来事の数々が近代から現代へと続く歴史の歯車を回し、そして日本と世界とを結ぶ道を拓いてきたのです。辺境の海や島は、雄弁な都会とは違って常に寡黙です。しかしこうした場所にこそ、日本が歩んできた道のりの道標となる事跡の記憶が眠っているのかもしれません。根室の海と島は、それほど貴重な場所なのです。




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Nemuro 1946-1969

写真:⼭本正実、菊池克⼰、他
1946~1969年頃の根室の様⼦。遠くに⾒える島影はユルリ・モユルリ島など 

Chronology

 

1754年

松前藩によってクナシリ場所が開かれる(“場所”とはアイヌ人と和人との交易の場のこと)。

1790年

前年に起きたクナシリ・メナシの戦い(大規模なアイヌの蜂起事件)を受けて、運上屋(藩の出先機関)が移転。現在の根室市の起源となる集落が形成される。

1792年

伊勢国の船頭・大黒屋光太夫、ロシアの遣日使節アダム・ラクスマンに伴われ根室に到着。海難事故でロシア領に漂着以来、約10年ぶりの帰国を果たす。

1796年

淡路島出身の廻船業者・高田屋嘉兵衛が蝦夷地に進出し、箱館(現在の函館市)に拠点を置く。

1798年

幕臣の近藤重蔵が北方調査のために根室を訪問。国後島で合流した探検家・最上徳内とともに択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。

1799年

近藤重蔵からの依頼を受け、高田屋嘉兵衛が国後島と択捉島の間の航路を開拓。翌年には自ら択捉島に赴き、多くの漁場を開く。この功により嘉兵衛は苗字帯刀を許される。

1800年

測量家・伊能忠敬が蝦夷地測量を行う。現在の別海町まで到達、希望していた根室での測量は実現しなかったが、後に間宮海峡を発見する間宮林蔵と出会い、測量技術を伝える。

1806年

高田屋嘉兵衛が現在の根室市松ヶ枝町付近で金刀比羅神社を創祀する。

1811年

千島の測量にあたっていたロシアの軍船ディアナ号の艦長ヴァシリー・ゴロヴニーンが松前藩の役人に捕らえられ、幽閉される。翌年、国後沖で高田屋嘉兵衛が乗船する商船をディアナ号が拿捕(ゴローニン事件)。嘉兵衛が交渉の方策をロシア側に提言し、結果、ゴロヴニーンは解放され、嘉兵衛も帰還を果たす。

1844年

長崎の平戸で仏門に入っていた松浦武四郎が、天涯孤独となったのを契機に還俗し、最初の蝦夷地探検に出発する。

1849年

松浦武四郎が国後島・択捉島に渡る際、ユルリ島に停泊する。

1855年

松浦武四郎、江戸幕府から「蝦夷御用御雇」に抜擢され、『東西蝦夷山川地理取調図』を出版する。

1868年

王政復古の大号令。幕府が廃止され、265年続いた江戸時代が終わる。

1869年

明治政府から「蝦夷開拓御用掛」を拝命した松浦武四郎が、それまでの蝦夷地に「北加伊道」(後に「北海道」)の名をつける。またアイヌ語の地名を参考にして国名や郡名を選定。武四郎の命名をもとに北海道11カ国86郡が制定され、現在の根室市には根室郡と花咲郡が置かれた。

1870年

6月に根室郡と花咲郡が東京府(現在の東京都)に編入される(同年10月に解消される)。

1875年

日本側特命全権大使・榎本武揚とロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフの間の協議により、サハリンをロシア領、国後・択捉・歯舞・色丹の4島に加え得撫島から占守島までの千島列島を日本領とすることで日露両国が合意。樺太・千島交換条約が締結される。

1882年

前年に起こった「開拓使官有物払下げ事件」(明治時代最大級の疑獄事件)を受けて北海道開拓使が廃止され、北海道は札幌県・函館県・根室県の3県に分けられる(1886年の北海道庁設置に伴い3県は廃止)。

1900年

前年に施行された北海道一級町村制により、根室郡根室町が成立。

1916年

ユルリ島で銀狐の飼育が始められる(約10年で飼育場は閉鎖)。これに前後して島では馬の放牧も行われる。

1921年

国鉄根室駅が開業する。

1931年

8月24日、パンアメリカン航空から北太平洋航路の調査を依頼されたチャールズ・リンドバーグが妻のアン・モローとともに根室に到着する。前日に到着予定だったが、濃霧のために夫妻の乗った機は国後島に不時着。牧草小屋に一泊した後、島民が差し入れたビールで乾杯してからの出発だったという。

1945年

7月14日、アメリカ軍の空襲により市内の大半が焼失、壊滅的被害を受ける。8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄してソビエト連邦が千島列島、国後島、択捉島、歯舞群島、色丹島を占拠する。

1950年

北方領土を追われ、移住を余儀なくされた漁民などが昆布の干場を求めてユルリ島へ渡りはじめる。この時、昆布を干場まで引き上げる労力として馬が島に移入される。

1957年

根室郡の根室町と和田村が合併、市制が施行され根室市となる。

1960年

「緩島灯台」が点灯される。

1963年

ユルリ島(及び隣接するモユルリ島)が北海道により天然記念物に指定される。

1971年

最後の島民が島を離れ、ユルリ島が無人島となる。以後、島には馬だけが残される。

1976年

ユルリ島が北海道自然環境保全地域に指定される。

2006年

かつての島民の高齢化によって馬の管理が困難さを増し、ユルリ島から雄馬が引き上げられる。これによって島の馬はやがて絶えることが運命づけられる。

2017年

根室市民の間でのユルリ島への関心の高まりを受けて、「根室・落石地区と幻の島ユルリを考える会」が設立される。